逢坂の雑記帳

道化の秘学帳

雑学と都市伝説の備忘録

スポンサードリンク

ツタンカーメンの呪いについて

スポンサードリンク

はじめに

みなさんどうもこんにちは。


ツタンカーメンは古代エジプトの王=「ファラオ」の中でも特に知名度の高い人物です。


そのミイラに被せられていた「黄金のマスク」は、正に古代エジプトをビジュアル的に象徴する宝物と言っても過言ではないでしょう。


しかし、同時にツタンカーメンには「ファラオの呪い」とも呼ばれる恐ろしい話がつきまとっていることも有名です。


「ファラオの呪い」とは何なのか?


そして、ツタンカーメンの呪いは本当にあるのでしょうか?


ここでは「ツタンカーメンの呪い9つの噂」をご紹介しましょう。


他にも都市伝説の記事を書いております。

ぜひご一読ください。

ツタンカーメン

ツタンカーメンは紀元前1300年頃、古代エジプトの第18代王朝を治めたファラオのひとりです。


年端もいかない8歳の少年だった頃、彼は王に即位し、在位期間はわずかに10年しかありません。


死後、その遺体はテーベ(現在のルクソール)の岩山の谷にある「王家の谷」と呼ばれる岩窟墓群に埋葬されました。


ツタンカーメンの時代にはピラミッド建設は行われなくなっており、この「王家の谷」には24人の王の他、合計64人の王族が埋葬されていました。


ツタンカーメンの墓は、1922年11月に「王家の谷」の62番目の墓として発見されました。


大多数の王墓が盗掘に遭って、その副葬品のほとんどが持ち出されてしまっているなか、このツタンカーメンの墓は奇跡的にほぼ盗掘を受けていない状態で発見され、有名な「黄金のマスク」をはじめ、多くの副葬品が発見されました。


しかし、この発見の後、発掘に関係した人々にある異変が降りかかります。


その異変こそが、後に「ファラオの呪い」と呼ばれる怪奇現象でした。

ファラオの呪い

墓の入り口に刻まれた不吉な碑文が発見される

1922年11月4日、イギリスの考古学者ハワード・カーターが率いる考古学調査隊が、王家の谷で62番目となるツタンカーメンの墓の入り口を発見しました。


この時、カーターの一行は、墓の入り口に刻まれた碑文も同時に発見しています。


その碑文は以下のような内容でした。


「偉大なるファラオの墓を荒らす者には、死の翼が襲いかかり、たちどころにその生命を奪うであろう」


それはあたかも、墓を発見したハワード・カーターらの一行の末路を告げるような、不吉な予言でした。


そして、墓が発見された正にその日、不吉な予言が現実のものとなります。

カーターの飼育していたカナリアがコブラに食われる

ハワード・カーターは英国からエジプトに渡る際、一羽のカナリアを持ち込んでいました。


当時、エジプトではカナリアは珍しく、見た目の美しさもあって、人々はカーターのカナリアを「黄金の鳥」と呼んだそうです。


カーターがツタンカーメンの墓所を発見したことで、エジプト人はカナリアを「幸福の鳥」と呼ぶようになりましたが、実はカーターによる墓所の発見直後に、エジプトコブラに食われて死んでしまうという事件が起こっていました。


カナリアを「縁起物」のように捉えていたエジプト人は、事件の話を聞くと、不吉な予兆ではないかと怯えたと言われています。


後にこの事件は、その後に続いた不吉な出来事の数々から、「ファラオの呪い」の始まりであったと認識されるようになります。

発掘のスポンサーだったカーナヴォン卿が原因不明の病死を遂げる

ツタンカーメンの墓が発掘された翌年の1923年4月に、ジョージ・ハーバート第5代カーナヴォン伯爵(カーナヴォン卿)が謎の熱病によって死去します。


カーナヴォン卿はイギリスの貴族院に席を置く有力な貴族にして資産家でした。


競馬馬のオーナーや、当時発明されて間もない自動車に熱狂したカーナヴォン卿でしたが、彼はアマチュア考古学者でもあり、特に古代エジプトの研究に情熱を注ぎました。


ハワード・カーターの発掘調査隊にスポンサーとして資金提供したのも彼であり、ツタンカーメンの墓所が発見された際には、その発掘にも立ち会っています。


そのカーナヴォン卿が発掘から半年のうちに病死したことで、にわかに「ファラオの呪い」の噂が広まることになります。

発掘調査隊メンバーを襲った「死の連鎖」

カーナヴォン卿の死の直後、同じくツタンカーメンの墓の発掘に参加した調査隊の主要メンバーのひとりであった考古学者のアーサー・メイスが急死。


ツタンカーメンのミイラを検査した医師のダグラス・テリーやアルフレッド・ルーカスといった人物も相次いで急死します。


結局、1930年までに発掘に関わった調査隊のメンバー23人中22人が死亡し、1930年代以降存命したのはたった一人であるとされています。


人々は、この調査隊メンバーが次々に急死したのは、墓所の入り口にあった碑文に書かれた「呪い」が実現したものであるとして恐れ、一連の事件は後世に「ファラオの呪い」として語り伝えられることになります。

ツタンカーメンの死因3つの説

ツタンカーメンの墓所の発掘を契機に起こったとされる「ファラオの呪い」。


しかし、「王家の谷」では、ツタンカーメン王の墓所発見以前に60以上の墓が発見されていますが、その発掘隊が呪われたという話はありません。


つまり、一連の呪いは「ファラオ(王)」の墓所を荒らしたから起こった、とは考えにくく、むしろツタンカーメン王個人の呪いであると考えた方が合理的でしょう。


それでは、なぜツタンカーメン王は後世に「呪い」を遺したのでしょうか?


その謎を解くために、「ツタンカーメン王の死因」に関する3つの仮説を紐解いてみましょう。

撲殺されたという説

1962年になって、ツタンカーメン王のミイラに対するX線検査が行われました。


その結果、ミイラの頭蓋骨の中に骨片が残っていることが発見されました。


これは頭部に強烈な打撃を受けたためであると考えられたことから、ツタンカーメンは撲殺されたのではないか、という説が生まれました。


ただし、この説に対しては、ミイラの頭部に残っていた傷痕は、ミイラ制作の際、腐食しやすい脳組織を取り除くために、外科的に外から開けられた痕跡であるという説も存在します。

毒殺されたという説

ツタンカーメン王の棺が安置されていた玄室には、有名な『黄金のマスク』以外にも、さまざまな副葬品が発見されています。


その中には、ワインを貯蔵するための壺もありました。


当時のエジプトでは、酒としては主にパンを発酵させて作る原始的なビールが一般的に飲まれていたことが知られています。


ワインは、その当時は王侯貴族の口にしか入らない、貴重な酒であったとされています。


ツタンカーメンはこのワインを用いて毒殺されたのではないか、と推測する説があることは間違いありません。

戦車からの転落死説

ツタンカーメン王のミイラは、その調査の初期段階で左足大腿骨に骨折の痕跡があることが発見されており、当初から王の死因としては、この大腿骨骨折が原因となって起こった敗血症が有力視されていました。


ツタンカーメンは脚に先天的な奇形があったことも知られており、生来虚弱な体質であったと見られていますが、王としての責務を果たすため、馬に引かせる二輪車(チャリオット)に乗って各地を飛び回り、精力的に活動していたとされています。


左足大腿骨の骨折は、後の調査でバイク事故でよく起こる大腿骨骨折に類似していることが判明、そこから、ツタンカーメンが騎乗していたチャリオットから転落してその際に骨折、それが原因となって病死したという説が有力視されています。


あるいは、王とチャリオットに同乗していた何者かが王を突き落としたとも考えられます。

2人の容疑者

ツタンカーメンの死因を探ると、その死の原因が暗殺であった可能性が高いことがわかります。


ツタンカーメンは年端もいかない8歳の少年であった頃、周囲の政争に巻き込まれて玉座に担ぎ上げられ、そしてわずか18歳で死んだことがししられています。


本人の意志とは無関係に王として祀り上げられ、そして権力闘争に巻き込まれ暗殺されたのだとすれば、彼が後世に呪いを残す気持ちになることは、十分納得がいきます。


では、一体何者がツタンカーメンを暗殺したのでしょうか?

古参の臣下であった人物、アイが犯人だとする説

ツタンカーメンの死後、ファラオの地位についたのは、大神官を務めていた人物、「アイ」でした。


彼は代々神官の家系に生まれ、ツタンカーメンより3代前のファラオであるアメンホテプ3世の時代から、自らも神官として王朝に仕えていました。


ツタンカーメンの死後、アイは新国王ケペルケペルウラーとしてファラオに即位、ツタンカーメンの后であったアンケセナーメンを王妃としています。


古来より、アイはツタンカーメン暗殺の首謀者であったと考えられており、その悪名のために、現在も即位前の名前で呼ばれるのが一般的となっています。

第18代王朝最後の王であるホルエムヘブが犯人だったとする説

ツタンカーメン暗殺の首謀者は、アイと同時代に第18代王朝に仕えていた軍人であるホルエムヘブであるという説も存在します。


ツタンカーメンはホルエムヘブの手によって暗殺されましたが、即位したのは大神官であったアイでした。


しかし、アイは高齢であったために即位から程なくして死亡、ホルエムヘブはアイが後継者として指名していた軍司令官のナクトミンを打ち破り、自らが王位に即位しました。


ホルエムヘブは第18代王朝の最後のファラオであったとされています。

まとめ

カーナヴォン卿の死因に関しては、蚊に刺された後にできた傷痕が元で敗血症を起こしたことが原因であるという説が有力であり、他の発掘隊のメンバーが1930年までに殆ど死んだ、という事実も確認できません。


「ファラオの呪い」は、当時行われた「ツタンカーメンの黄金のマスク」の展示会の誇張された宣伝文句が元であったというのが現在最も支持される説となっています。


しかし、先天的な障害をかかえ、病弱であったとされるツタンカーメンが、政争の道具として望まぬ王位に即位させられ、そして暗殺されたとすれば、彼が世界を呪って死んでいった可能性は十分考えられるでしょう。


「ファラオの呪い」は、やはり実在したのかもしれません。

最後に

最後まで読んでいただきありがとうございます。m(._.)m

↓おすすめドメイン↓
お名前.com

にほんブログ村に登録しています。

クリックしていただくと、今後の励みになるので、よろしくお願いします。

ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村


この記事を気に入ってくださった方は、読者登録、SNSでの拡散、ブックマークなどをして頂けると嬉しいです。

Copyright © 2017 逢坂の雑記帳 All rights reserved.